皆さん、こんにちは。21世紀でくのぼうです。
前回の自己紹介記事では、私が「21世紀でくのぼう」という名前を名乗り、通信制大学を経て日本語教師になった現在の姿をお話ししました。おかげさまで多くの反響をいただき、改めて自分の歩んできた道を言葉にすることの意義を感じています。
さて、今日お話ししたいのは、私の人生の根幹に関わる物語です。 「なぜ、私は日本語教師という仕事を選んだのか?」24歳という若さで国家資格(登録日本語教員)を取得し、専任講師として教壇に立つ今。振り返ってみれば、それは単なる就職活動の結果ではありませんでした。幼少期の憧れ、中学・高校時代の暗闇、そして海外で味わった衝撃。バラバラに散らばっていた「生きづらさの欠片」たちが、日本語教育という一本の線で鮮やかに繋がったのです。少し長いお話になりますが、私の魂の遍歴とも言えるこの物語を、皆さんと共有させてください。
📌この記事で伝えたいこと
・憧れだった「世界」と、中学・高校で感じた挫折
・バラバラだった過去が「日本語教育」で繋がった瞬間
・「黒い羊🐑」だった私が教壇に立つまでの理由
① 幼少期:父のスーツケースに詰まっていた「世界の匂い」🌏️
私の夢の種が蒔かれたのは、まだ世界が今よりもずっと大きく、神秘的に見えていた小学生の頃でした。私の父は、仕事で頻繁に海外を飛び回る人でした。ドイツの古城がそびえる街、アメリカの広大なハイウェイ、シンガポールの多文化が混ざり合う喧騒。父は数週間ごとに、異国の香りを纏って帰宅しました。帰国のたびに、リビングのテーブルいっぱいに広げられる現地の写真や、見たこともないカラフルなパッケージのお菓子たち。それらは、幼い私にとって単なる「お土産」ではありませんでした。

でくのぼう
世界は、こんなにも広くて、こんなにも違う色がたくさんあるんだ🌏️✨️❤
テレビ画面越しに眺める遠い国の出来事ではなく、父が実際にその靴で歩き、その手で触れてきた世界。それは私にとって、「いつか自分も、自分の足で行くべき場所」という具体的で、強烈な憧れになったのです。父が運んできた海外の匂いは、私の心の中に「いつか世界と関わって生きていく」という消えない灯を灯しました。
② 暗闇の中の中学・高校時代:失われた色と「Black sheep」としての葛藤🐑
しかし、成長とともに、私の世界は少しずつ色彩を失っていきます。 あんなに憧れていた「海外」と繋がるための武器であるはずの「英語」が、私にとって最大の苦痛へと変わってしまったのです。
中学で始まった英語の授業は、私が想像していた「世界と対話するためのツール」ではありませんでした。試験のための細かい文法、パズルのような構文暗記、正解か不正解かだけで切り捨てられる無機質な時間。自由で広大だったはずの海外が、窮屈な「教科書の中の記号」に閉じ込められてしまった感覚でした。
そしてこの頃から、私は周囲とのコミュニケーションに激しい違和感を抱くようになります。

でくのぼう
なぜ、みんなと同じように振る舞えないんだろう。
なぜ、当たり前の集団生活がこんなに息苦しいんだろう⋯。
先日お話しした通り、私は「Black sheep(群れの中の黒い羊=変わり者)」としての性質が色濃く現れ始めました。INTJ-Tという気質ゆえの論理的すぎる思考や、周囲の空気に過剰に同調できない不器用さ。私は学校という組織の中で、完全な「異質」として孤立していきました。不登校、通信制高校への転入、そして大学時代の休学。 「周りと同じペースで進めない自分」に対する絶望感。特に冬になるたびに訪れる、鉛のように重く鬱々とした体調不良。暗い部屋で一人、「私の居場所は、この世界のどこにもないのではないか」と自問自答し続ける日々は、まさに底の見えない暗闇の中にいるようでした。
③ 転機:一本の映画と、コロナ禍の短期留学で見えた景色🎥📔🖊️
そんな私の停滞していた時間を、再び動かしたのは一本の映画でした。 (その作品の詳細については、また別の記事でじっくり語らせてください。)その映像の中に流れる異国の空気感、登場人物たちが放つ自由なエネルギー。それらは、心の奥底で埃を被っていた「あの頃の憧れ」を再び激しく揺さぶりました。その映像の中に流れる異国の空気感、登場人物たちが放つ自由なエネルギー。それらは、心の奥底で埃を被っていた「あの頃の憧れ」を再び激しく揺さぶりました。

でくのぼう
「このままここで枯れていくのは嫌だ。もう一度、あの広い世界を自分の目で見たい」
そこで私を待っていたのは、想像もしなかった「孤独」と、それ以上に深い「解放感」でした。「異質」であることが「個性」に変わった瞬間日本では、空気を読めない「変わった人」として扱われていた私が、海外という圧倒的な多様性の中では、単なる一人の「日本人女性」として扱われました。 「みんな違っていて当たり前」という環境下では、私のBlack sheepとしての性質は、排除されるべき欠陥ではなく、私を形作る一つのパーツに過ぎなかったのです。そのままの自分で呼吸していいのだという感覚。それは、私が20数年の人生で初めて味わった、震えるほどの解放でした。外から見た「日本」という国の眩しささらに私を驚かせたのは、私が「生きづらい場所」として背を向けようとしていた「日本」に対する、現地の人々の熱烈な眼差しでした。 日本の企業努力、洗練された文化、そして何より「日本語」という言語が、これほどまでに高く評価され、世界中の人々に愛されているという事実。 「日本語を学びたい」「日本の文化をもっと知りたい」と瞳を輝かせて語る学習者たちの姿を目の当たりにした時、私の中に一つの新しい光が差し込みました。
④ 結論:なぜ、私は「日本語教師」なのか
「海外で働きたい」という幼い頃の、純粋な夢。 「Black sheep」として、日本の社会に馴染めず、居場所を求めて彷徨った孤独な経験。 そして、留学先で肌身に感じた「日本語や日本文化が持つ、人を惹きつける力」。これら一見バラバラだった私の人生の要素が、カチリと音を立てて合致した場所。それが、日本語教師という仕事でした。私が歩んできた道のりは、決してエリートのそれではありません。むしろ遠回りの連続であり、挫折と自己否定にまみれた道でした。しかし、今ならはっきりとわかります。「言葉が通じないもどかしさ」も、「周囲と馴染めない孤独感」も、「自分が何者かわからなくなる不安」も、すべてを知っている私だからこそ、日本語を学ぶ学習者の方々の痛みに、誰よりも深く寄り添えるのだと。単に文法を教えるだけの教師なら、AIでも、あるいはもっと頭の良い人でも務まるでしょう。 でも、教室という小さな社会の中で、かつての私のように「異質であること」に戸惑う学生の手を取り、「大丈夫、その個性のまま、新しい言葉を手に入れよう」と背中を押せるのは、Black sheepとして生きてきた私にしかできない使命だと信じています。
最後に:黒い羊🐑が、架け橋🌉になるということ
「Black sheep」だった私だからこそ、伝えられる言葉があります。日本語というツールは、単なるコミュニケーションの道具ではありません。それは、学習者にとっての「新しい自分」に出会うための鍵であり、異なる視点で世界を捉え直すための窓です。かつてどこにも居場所がないと感じていた私が、今、日本語教育というフィールドで「世界と日本を繋ぐ架け橋」として立っています。教壇に立つ毎日は、3月・4月の激務に胃腸炎になるほど過酷な時もありますが(笑)、それでも学生の成長を間近で見られるこの仕事は、私の人生の救いそのものです。
未熟な「21世紀でくのぼう」ですが、これからも一歩ずつ、手探りでがむしゃらにこの道を踏みしめていこうと思います。最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。 もし、私の不器用な歩みに少しでも共感していただける部分があれば、ぜひ応援していただけると、今の私にとってこれ以上ないほどの栄養剤になります💪
共に、自分らしい色で、この広い世界を彩っていきましょう!
21世紀でくのぼう
通信制大学を経て24歳で国家資格【登録日本語教員】に。
現在は専任講師として教壇に立つ傍ら、自身の「生きづらさ」や海外での体験、日本語教育についての発信を行っています。


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